(初出『文芸春秋』昭和五年「琉球と大和口」より)

合唱して覚えた日本語

私が日本語を覚えはじめたのは11歳の時で、
当時の会話の教科書は沖縄県庁の学務課で編纂した『沖縄対話』というものでした。
これを毎日唱歌でもうたうように、メロディーをつけて合唱しているうちに、
いつ覚えるともなく覚えて、中学に入学する頃には一通りは使えるようになっていました。

今でこそ日本語は普及していますが、当時は話せる人がいたって少なく、
誰々はヤマトグチ(=日本語)ができる、というのは、
今でいう誰々は英語が話せる、くらいのものだったのです。

借りものの言葉

年取った人や学校に行かない連中はこれを学習する機会がなかったので、
酒宴の席上などで冗談半分に稽古したものでした。
中国人の子孫である久米村人の間では、
「ヤマトグチ為(シー)が行(イ)か」=日本語を話しに行こう
という言葉が、「一杯飲みに行こう」の代わりに使われたぐらいでした。
私も父親が酔っぱらうと、いつも大和口をしかけられて困りましたが、
この言葉を正式に学んだ自分たちは、こういう人たちに対して一種の優越感を感じていました。

しかし二十一歳の時、初めて上京して、
自分たちの大和口が借りものであることをしみじみと感じたのです。
書記官の人に、東京に来て何が一番珍しいかときかれ、
「車夫の日本語がうまいことだ」と答えたら、
それは自分が初めてフランスへ行ったとき、
パリの乞食はフランス語がうまいと言って笑われた話と同じだ、といわれました。

方言を使うとペナルティ

その後国語教育が普及して、沖縄口(=琉球語)を使うのがむしろ恥辱と思われるまでになり、
今ではどんな僻地に行っても日本語が通じない場所はありません。
琉球語の単語は日本語の単語にすげかえられ、
音韻・語法・言いまわしまで日本的になってしまいました。
今の若者が使っている沖縄口を、六、七十の老人は理解できないようになっています。

10年前、沖縄の第一中学校で方言の使用を禁止して、
その取締りに「制札法」というのが採られたことがありました。
制札法とは農村の法のひとつで、サトウキビをとって食った者に「罰札」を渡すのですが、
これを渡された者は、次の違反者を自分で見つけるまでは、毎日罰金を納めなければなりません。
こんなことを中学がまねて、ある特待生が方言を使って札を渡されたのですが、
彼は次の罪人を見つけてこれを渡すにはあまりに好人物で、
またそうする機会もなく、いつまでも自分で持っていました。
ところが彼の素行点は毎日引かれて、ついにゼロとなり、落第しなければならなくなって、
彼自身も、またその同級生たちも驚いたということです。

そこでは方言を使って講演をするなど、非愛国的行為とさえ考えられていました。
ちょうどそのころ私は沖縄をめぐって講演をしていたのですが、
大和口をよく知らない大多数の人たちのためにと、理解しやすい言語で話したところ、
教育家や政治家の一部からかなりの非難を受けました。
私は血族結婚や早婚の弊害を理解させ、酒や梅毒の恐ろしさを伝えるために、
人々の胸により響く方言を使ったに過ぎないのですが、
これを一種の国語運動と誤解したらしいのです。

破産しかけている琉球語

しかしその後、民衆の意思を動かすには方言を使うに限ると気づいて、
かつて私を非難していた政治家たちまでが、
一票でも多く取ろうと方言で政見を発表するようになったとのことです。
ハワイではカナカ先住民が、ふだん英語をしゃべらないと幅がきかないと思っているのに、
県会議員選挙の政見発表にはみんな土語を使っていて、
どこにも似たことはあるものだと感じました。

国語は国家統一のための手段に過ぎないのに、
沖縄にいる人たちはそれを目的のように思いこんで、
あらゆるものがその犠牲になるというありさまです。

しかし私は琉球語に長く生命があるとは思っていません。
自分自身の琉球語が「古典」になりつつあるのにも気がついています。
琉球語はこうして破産しかけていますが、それも仕方のないこと。
そうかといって、自分たちの日本語は不完全でつたないものであり、
破産した家の子供が借金で生活しているようなものです。
今に至るまで琉球が一人の創作家も出すことができないのは、
おもにこうした国語問題が横たわっているためでもあるのです。